高来神社の歴史
はじまり
大磯の東に聳える緑したたる高麗山は、古より神奈備山として住民から信仰されていた所であります。
この山に鎮座する神社の創建は六世紀以前とされ、神功皇后が三韓を討った後に、竹内宿禰の奏請により、高句麗の神霊 高麗大神和光・神皇産霊神(高麗権現)を山上に移し天下の長き安寧を祈願されたのが創始と伝えられています。又、安閑天皇の御代に神功皇后・応神天皇も高麗権現社に合祀されました。
尚、この高麗権現は当時、箱根神社並びに伊豆山神社に遷祀され霊験あらたかにして、源頼朝や土地の住民の深い信仰をうけ古くから歴史の舞台となっております。(箱根山縁起・走湯山縁起・高麗寺建立記)

高句麗の若光が渡来
天智七年(六六八)頃、高句麗の副使であった若光は祖国滅亡後に東を目指し大磯の浦に渡来、上陸して高麗の地に住み、大陸の文化を伝えました。現在、唐ヶ原の地名も残っています。
霊亀二年(七一六) に大磯を始め相模、駿河など七ヶ国に渡来し居住していた高句麗人 一、七九九人が武蔵国高麗郡に移され開発を命ぜられました。この時、先に大磯に渡来していた若光が「王」の姓を賜り郡長として赴いております。(続日本紀)
高麗寺の創建
養老元年(七一七)には、奈良時代の僧行基が、この地を訪ね大磯の浜・照ヶ崎より漁師蛸井之丞が漁船に移し奉ったと云う千手観音菩薩(夏祭り奉納木遣伝承)を拝し、高麗寺の本地佛と定められ、高麗寺を創建されました。(高麗寺建立記)
斉衡年中(八五四頃) 慈覚大師円仁は山頂の高麗権現社の右峯に白山社を、左峯に毘沙門三重塔を勧請して山頂の高麗権現と併せ三社権現と称され信仰されてきました。
前記の高麗権現外の神々が山頂に勧請され、後に高麗寺が創建されて別当寺となるなど、高麗寺・高麗権現と称して神仏習合の聖地となり各時代にわたり時の幕府や民衆から深く信仰、崇敬された所であります。
最盛期の鎌倉時代には、相模国の大寺社として境内に二十四の僧坊が置かれ隠然たる勢力をもち、建久三年(一一八二)源頼朝により神馬が奉納され、北条政子の安産祈願がなされるなど幕府の厚い信仰を受けています。
室町時代には高麗山が要害の地として足利、上杉氏の内乱や小田原北条氏などの戦の場となりましたが、後に北条氏からも寺領六十七貫余を与えられ保護を受けています。しかし戦国時代、永禄年間(一五六〇頃)に北条氏と 上杉、武田氏との重なる戦いにより白山社、毘沙門三重塔を始め多くの伽藍が焼失しました。

徳川幕府の直轄領となる
江戸時代には徳川幕府からも崇敬され、天正一九年(一五九一) 御朱印地として、寺領百石と山林を与えられ特別な扱いを受けています。当時百石の朱印地を与えられた寺社は相模国では鎌倉の寺社を除き、外に寒川神社と大山阿夫利神社のみであります。
徳川家康没後の寛永十一年(一六三四)には東照権現(家康) を勧請し、東叡山寛永寺の末寺となりました。このため、参勤交代の大名行列も高麗寺領内を通るときは下馬し大鳥居の前で最敬礼して静かに通りました。
当時高麗寺には「地頭所」が置かれ、宗教的権威と村の領主の役割を持つ様になりました。
(新編相模国風土記稿)
高麗権現社から高来神社へ
明治になると新政府の神仏分離政策により高麗寺は廃寺となり、高麗権現社は高麗神社となりました。さらに明治三十年には高来神社と改称され今日に至っています。
千手観音(現在、旧観音本堂(下社)に遷座) を始めとする寺物は現慶覚院に安置されています。また高麗権現社に安置されていた鎌倉時代の神像群は修復、保存修理され大磯町郷土資料館に保管されています。
高来神社は古来より、高麗、大磯の鎮守の氏神として、現在も地域住民の平和と安全を御守護されています。